先日、戦時中の話を聞きました。それを一人称の形で書かせていただきます。
昔はこういうことがあった、ということを残しておくのは大事だと思うので。
では、どうぞ。
招集令状が来たのは、太平洋戦争終盤、中一の冬だった。
その頃、奄美大島は米軍からの攻撃を受けていた。
船は潜水艦に沈められて物資は届かない状況になっていた。
そこで、空襲に備え市街地にある家から大事なものを全てリアカーに載せて山の中に運ぶことになった。
兄達はみな兵隊として戦地に赴いていて、家に男は僕だけだったので、一人でそれをやることに。
運び終えた日の夜、ついに軍からの集合がかかった。南にある基地まで夜間移動するらしい。
昼間に集団で移動してたら米軍機に機銃掃射されてしまうので、夜しか動けないのだ。
奄美大島の北から南まで山道を歩いて縦断するのだから大変だ。
おまけにその日は雨も降っていた。
一晩ではたどり着けず、翌日の明け方、途中にある公民館で雑魚寝することになった。
奄美でも冬はそれなりに寒い。本土の人間からしたら暖かいかもしれないが。
毛布もないので、何か上着でも羽織って寝るように言われたが、タオルしかなく、それをかけて寝た。とてもそれでは寒さをしのげなかったが、疲れていたのでいつしか寝ていた。
夜になり、再び行軍を開始し、夜明け前に山の上にある基地に到着した。
そこで僕は通信兵として仕事をすることになる。
モールス信号で数字が送られてくる。それを紙に書き出し、暗号解読班に渡す。それが主な任務だ。
前線ではないとはいえ、基地での生活は厳しかった。
最初の頃は握り飯が出ていたのでまだ良かった。
しかし、だんだん、その大きさが小さくなり、一口サイズとなり、最後は毒抜きしたソテツの実で作った団子に米粒をまぶしたものしか出てこなくなった。
僕はソテツの団子が不味くて食べられず、米粒だけ食べたら友達にあげていた。
だからみるみるうちにやせ細り、最後の1ヶ月は赤痢になって下痢が止まらない状態になった。
何かまともな物が食べたい。頭の中はそればかりだった。
そこである時、友達と倉庫にこっそり侵入すると、そこには食料が保存されていた。
なんだ、うまそうな食べ物があるんじゃないか。
もう、辛抱たまらず、食べようとした時、
ガラガラッ
倉庫の戸が開いた。
「貴様ら、何をやっている。兵隊さん達の大事な食料を」
上官は鬼の形相で怒鳴った。
当然激しく袋だたきにされる。
僕らは二等兵とは名ばかりで、正式に軍隊教育を受けていない学徒隊、いわゆる補助要員の少年兵なのだ。兵隊さんというのはもちろん職業軍人のことだ。
扱いもひどいし、まともな飯も食えないし、もう、こんなとこにはいられない、脱走しないと死んでしまう。
そう思ってそれから毎日脱走を考え、機会をうかがっていた。
しかし、その後、18才くらいの兵士がボコボコにされたあと両手を頭の上で縛られて木に吊されてる姿を見て、それもあきらめた。彼は脱走兵だったのだ。
こないだ殴られただけでも相当つらかったのに、脱走して捕まったらあんな半殺しに遭うなんて恐ろしすぎる。
基地にきて半年が経った8月のある日、戦争が終わった、と聞かされた。
「やったぁ、バンザイ」
と喜んだ途端怒鳴られた。
「馬鹿者、日本は負けたんだ。喜ぶヤツがあるか」
「えっ、負けたんですか?」
ずっと勝ってるものとばかり思っていた。
大本営発表はいつも景気のいい話ばかりだったからだ。
ウソだったのか・・・・・・。
ガッカリしたが、ようやくここから解放されると思うと嬉しかった。
親戚の叔父さんが迎えにきてくれたが、僕を見て驚いていた。
あまりにもやせて骨と皮になっていたからだ。まるで老人のようだったらしい。
家に帰って、薬局の薬を処方されるとようやく下痢も止まった。基地の薬は全く効かなかったのだが。
それから学校に復帰したが、奄美大島はその後数年間アメリカ領になっていた。
僕はアメリカ人として、日本の大学に留学することになる。
だから、何かあっても簡単に帰省することはできなかった。
国の許可が必要だったのだ。
そんな状況だからこそ、密航や逃亡劇を起こすことになるのだが、それはまた次回。
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14歳の二等兵
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