「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」
「汝の敵を愛せよ」
どちらもイエスの言葉として聖書に載っています。
でも、実は、片方はイエスの言葉ではありません。
前回までのイエスシリーズを読んでる方ならわかるでしょう。
そうです。
イエスが言ったのは、
「右の頬~」の方です。
えぇ~、「汝の敵~」じゃないの? イエスは愛を説いたんでしょ? 敵すら愛しなさいって凄いことじゃん。
と言われる方もいるかもしれません。
でも、イエスの中に、そもそも敵とか、悪魔とかって概念は、存在すらしてなかったのです。
それは人間が認識したり創り出したりしたもので、元々そういう存在だったわけではありません。
非物質体験(ヘミシンク・瞑想・体脱、夢等)で、怖い存在に遭った時、これは自分の恐怖心が作り出しているんだと気づいた瞬間、光輝く存在に変わる、といった話をよく聞きます。
だから、イエスからみたら、どちらも迷える子羊や放蕩息子なのです。
敵だという認識がないのに、「敵を愛せよ」なんて言いません。
「隣人を愛せよ」とは言いました。隣人とは自分が向き合う人全てです。
だから、言い換えると「全ての人を愛せよ」と言っているのと同じです。
敵だとか言ってる段階で相手を悪い存在として裁いていることになります。
石打の刑の現場に出くわし、「今まで罪を犯したことのない者だけが石を投げよ」と、言ったように、イエスは他人をジャッジすることを戒めていますし、
世界中の霊的指導者が尊敬しているイエスがそんなこと言うわけありません。
「ヒマラヤ聖者~」の6巻だったと思いますが、直接イエスに会った著者はイエスは敵や悪魔という言葉を使わなかったと証言してます。
でも、ファリサイ派の人々を罵倒してるじゃん、
という方もいるでしょう。
あれもイエスのセリフではないと思います。たぶん、「汝の敵~」もそうですが、洗礼者ヨハネの話じゃないでしょうか。
ヨハネは厳格な方で、結構目立つ存在だったそうです。それに対し、イエスは穏やかで、ヨハネほど目立ってなかった、と弟子のトマスは証言してましたし。(神の使者かその続編で)
だいたい、聖書の福音書はイエスのあと何十年も経ってから書かれたものですし、直接の弟子が書いたものではなかったり、別の資料を元に書き加えられたものだったりしてますので、民話や洗礼者ヨハネの話と混ざってるそうです。(削除された話もあります)
ちなみに、敵だとか自分を害する存在だと思っているから、被害を受けたり、猛獣に襲われたり、強盗に遭ったりするのです。
ヒマラヤ聖者やアナスタシアは、そんな目に遭いません。
彼らは、普通に生きてる人とは別で特別じゃん、っていう人もいるでしょうが、普通の人の中にもそういう人はいます。
「木を植える男」、ポール・コールマンもその中の一人です。
彼は世界中を木を植えて歩いた人で、治安の悪い街や紛争地帯なども通っていますが、襲われることはないのです。
ポール・コールマンは、「どうやって自分の身を守りますか?」と訊かれると、こう答えました。
「私の自己防衛は“防衛しない事”なんです。
フレンドリーにいつも笑顔で、いつもオープンにしながら、深呼吸して“さぁ、何が起こるか見てみよう”という状態を保つようにしています。それから“敵を作らないようにする”こと。
『私は何かに反対していたり、反戦運動をしているんじゃ無いんですよ』というんです。
何かの反対というのではなく、前に向かって地球の為に、平和の為にいつもそういうふうにやっています。
それがポジティブなエネルギーになって、物事がいい方向に進んでいくようになります」
ハートをオープンにして恐怖心もなく、愛に溢れている人が襲われることはないのです。
でも、イエスは殺されたじゃん。
という人もいるでしょう。
「真実のイエス(聖書の間違い編)」にも書きましたが、聖書にはイエスが言ってない言葉も書かれているので、失敗したり苦しんだりしたようにも見えますが、そんなことはなかったのです。
これも私の意見ではなく、イエス本人や弟子が直接いくつかの本で語っていることです。
イエスは避けようと思えばできました。イスラエルに戻ってきて宣教活動を始めた時は、既にマスターになっていたのですから。
でも、イエスは十字架にかかることを計画してきたのです。
肉体を滅ぼしても、魂は死なないし、肉体だって再生できる、ってことや、
殺されたとしても恨むことも呪うこともせず、許し、その人達のために祈る、という本物の愛を示すために。
また、神に等しい力を人は誰でも持っているんだ、ということを身を持って教えるために。
実際、弟子達はイエスのような奇跡を起こせるようになりました。
ヒマラヤや、インドの聖者達も同じような奇跡を当り前のように起こしています。
もちろん、愛の教えとともにですが。
なお、イエスは今でも直接教えています。ババジと同じでその準備ができた人にしか現れませんが。
さて、では「右の頬~」の話に移りましょう。
これはまず、「目には目を。歯には歯を」では、いつまでも争いは終わらないし、憎悪の連鎖が続く、ということを教えています。
そして、「許す」ということを教えているのです。
相手は自分のしていることがわからないだけなのですから、許しましょう。
そもそも、相手がそういう行為に至ったのには、自分にも原因があるのです。
外に表れる出来事は自分の内面の表れだからです。
もちろん、直接の原因ではないかもしれません。
過去に行った別のことや思いが形を変えて現れてるのかもしれません。
または、生まれる前に計画してきたことかもしれませんし、過去世の因縁やカルマなのかもしれません。
その前に、我々は分離した存在ではありません。量子物理学では、この宇宙に独立した存在はありません。全て同じ素粒子でできているし、ひとつのエネルギーでもあります。
スピリチュアル的にも究極的にはワンネスで神=私しか存在していません。多くの覚者がそれを体験的に知っています。
だから、相手のすることは自分のすることです。
自分が自分にやってるんですから自分の責任です。許しましょう。
憎しみには愛で応えましょう。するとそこにはもはや愛しかなくなります。
でも、心の中に恐れがあるなら、左の頬を出すのは危険です。
潜在意識も含めて100%の確信を持って行動しない限り、形だけ真似ても上手くいきません。
そこまでの確信がない場合、君子危うきに近寄らず、で逃げることです。
先日、マスターのいう真実でも自分の状態に合ってないなら採用してはいけない、と書いたのはこういうことだったのです。
水の上を歩ける確信がないなら橋を渡るしかないのです。
恐怖心が残っていて、襲われない確信を持てないなら、アファメーションやエネルギーのバリアを張って防御しないといけません。
まず、自分の状態を知り、自分に合っているかを判断することも大事です。
マスターには誰でもなれますが、普通の人が簡単になれるほど甘くはないと思います。
相手に対する恐怖心もなく、愛に溢れる心で相手の行為を許し、左の頬を出すならば、殴られることなく、相手は改心することでしょう。
「暴力はいけないからやめなさい」と言って相手の行為を非難しても相手を変えることはできません。
自分の心を思いを考え方を変えることで初めて相手が変わるのです。
北風のように無理やり吹きつけても、相手は上着を脱ぎません。
太陽のようにただ光輝いていれば、相手は暑いことに気づき、自ら上着を脱ぐのです。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」
という言葉は、そういった話でもあるのです。
愛と許しによってしか争いや暴力はなくならないし、自分を変えることでしか世界は変えられません。
この言葉は、攻撃されても我慢してやりたい邦題させよ、といってるのではなく、本当の愛とはどういうものかを示しているのです。
ガンジーの非暴力・不服従の無抵抗主義が成功したのは、彼の心が愛と確信に満たされていたからだと思います。
ということで、「放蕩息子」ほどでないにせよ、この言葉もかなり深い話でしたね。
ただし、私の解釈ですからあくまでも参考までに。
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真実のイエス (有名なフレーズ検証編)
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